皆さんこんにちは、中国遼寧省・東港市のKHです。
昨日で今期の期末試験はすべて終了し、ほとんどの生徒たちは窮屈な寮生活から解放され、懐かしの我が家へ帰っていきました。私はといえば、自分が担当していた科目「ビジネス日本語」の試験が終わった一昨日から今朝まで、答案の採点と結果集計におおわらわでありました。それもどうにか終わり、中国滞在中最後となるであろうブログ記事をこうして書いています
これまでは主にトピックス的な内容をお伝えしてきましたが、今回は最終回として、「多少は私も先生としてお仕事をしていた」ことを証明すべく(?)、教師としての体験につい書いてみようかと思います。
私が東港に着いたのは昨年12月なのですが、その頃はちょうど秋から始まる学期が終わる頃で、実際に教壇に立ったのは3月の初めからです。まず衝撃的だったのは、担当する科目が予想外の「ビジネス日本語」だったということ。てっきり、もっともよく使われている教科書、「みんなの日本語」でも使って、「会話」の授業などをするのだろうと思っていました。
さらに衝撃的だったのは、担当が発表された会議の直後に教務の先生に、「教材も自分で準備してください」と言われたこと。いや、たまたま日本からビジネス日本語の教科書を2冊持ってきていたからよかったですが(虫の知らせ?)、そうでなかったら、もう大変だったでしょう。だって、その翌日から授業が始まったんですから。
まあ、1回目の授業は「日本語での自己紹介」でお茶を濁すとしても、2回目までにはきっちり準備をしておかなければならないし、いや、冗談でなく、担当発表があった夜は緊張とプレッシャーで悪寒がしましたし、翌日教壇に立つのが心底恐かったです。
経験と実力がないだけに・・・ちなみに、私が受け持ったのは2年生5クラスの総勢約140名です。
それでもどうにかこうにか初回、2回目と授業を続け、教壇に立つことにも慣れ、良くも悪くもルーティーンワークとして授業を進められるようになりました。
何よりも大変だったのは、生徒の名前を覚えること。商業日本語は各クラスとも週2コマの授業だったのですが、優れた忘却力を誇る私としては、とてもそれだけじゃ覚えきれません。
それに某クラスなんて、35名中11名が「王」っていう姓なんですよ。教師泣かせとはこのことです。
で、困り果ててどうしたかっていうと、生徒に名前を書いた紙を持ってもらい、デジカメで撮影させてもらいました。これは、ちょっとした気分転換のイベントになったらしく、おおいに受けました。とにかく名前を覚えるのが何より大事で、そうでないとおしゃべりしている生徒に注意もできないし、生徒との関係構築もスムーズにいかないということがよくわかりました。
生徒も、大半は親から言われて入学したとか、あんまり勉強は好きじゃないとかで、やる気がある子はあまりいないような。中卒以上が対象の学校なので、ハイティーンのなかなか手ごわいお年頃。手綱をしっかり締めてかからないと大変です。毎授業、気持ちよく夢の世界に・・・というような生徒もいますからね。あと、おしゃべりばっかりしているとか。
ただ笑ってしまうのは、こうして授業中ずーっと寝ているような生徒でも、廊下で会えば、「先生、おはようございます」と笑顔で挨拶してくれるんです。このへんが中国人ならではのおおらかさなんでしょうか。
逆にまじめで勉強熱心な生徒は、他の生徒に聞いた質問でもどんどん答えてきたりして。概して、日本人より活発で積極的な気がします。私の質問に答えられない生徒がいたりすると、回りの子が「だから○○だってば!」などと大きな声で教えてあげるのもほほえましい。日本人だと、教えてあげたいと思っていても、ちょっと気恥ずかしくてできないような気がしますがどうでしょう。
私の授業も、もちろん新米だけにやぶれかぶれ、日本語中国語チャンポンでもうめちゃくちゃなのですが、ときどき私が中国語を間違えると、「先生、その発音は××だよー」などと嬉しそうに直してくれることがあります。やっぱり、生徒も「教えてもらう」ばっかりじゃつまんないんですね。で、私が必死で言いなおすと、教室中に笑いが起こったりして。「あのね、だからね、外国語はみんな難しいのよ!」などといいわけしながら、私もつい笑ってしまいます。
でも、こうしたちょっとしたことでみんなが一緒に笑い、短いながらもクラス全体に一体感が生まれるとき、なんとも幸せだなーって感じがするんです。国籍や年代を超えて、同じ気持ちを共有している。心と心が一瞬、繋がっている・・・ちょっと大げさかもしれませんが、そんな感じ。もちろん、苦労も数限りないんでしょうが、こうした気持ちを実感することができる、先生って魅力ある仕事だなとやっぱり思います。
それに、私のような教師でも、「先生、いつ私たちのクラスを教えてくれるの?」などと聞いてくる、他のクラスの生徒もいて、そうした機会もないまま日本に帰ることに心が少なからず痛みます。実際、ほとんどの生徒とはもう会うことはないでしょう。
東港での生活は、必ずしもすべてが楽しく意に沿ったものではありませんでしたし、滞在手続きなど、中国ならではのめんどうくさい問題もありましたが、それらを含めて自分にとって本当に貴重なひとときでした。
こうした素晴らしい経験を、休職という恵まれた環境で得ることができたのも、会社の皆さんのご理解とご協力があったからにほかなりません。
こうした滞在を可能としてくださった、欧文印刷の上司や同僚、関係諸氏の方々に心から感謝しています。
そして最後となりましたが、このブログを読んでくださった方々も、本当にどうもありがとうございました。
<写真で振り返る滞在日記>
1月下旬、校庭の水道管工事の際、突然2日半断水に。
急きょバケツを購入して、校庭の雪を生活用水として活用。

千年古刹「大孤山」まではバスで1時間ほど。お寺の人と一緒に。
学校のスチームに流れるお湯を沸かす、コークス使用の巨大ボイラー。
右手のバイクと比較してみてください。
よく行った、学校から徒歩10分ほどの韓国料理屋。
中央は味噌汁で、それ以外はすべて、サービスの前菜。
これとご飯だけでもお腹いっぱいに。
寮の自室の窓からは、お隣の「辺防」(国境警備隊)の裏庭がよく見える。
緊張感など感じない、のどかな風景。
「糖葫芦(たんふーるー)」という、あめがけのさんざし。
1本2元(約28円)。甘酸っぱくておいしいが、冬場しかないのが残念。
お隣の丹東市にある英国系スーパー、TESCO(テスコ)。
他で手に入りにくい食品などもあって、よく利用した。
職員室で、若手の先生たちと一緒に。
自分の席に座って。
(証拠となる)授業風景。
生徒が着ているのは制服で、背中に「にほんごがっこう」の縫いとりが。
KH