中国では春節(旧正月)を祝う風習があります。
旧正月は旧暦の1月1日のことで、通常、1月22日ごろから2月19日ごろまでの間で毎年変化します。旧暦で平年だった年は翌年の旧正月は約11日後退し、閏月(うるうつき)があれば約18日進みます。今年の旧正月は1月26日です。
この時期になると、中国の個人宅やお店の扉、窓、壁等、いたるところに下のような逆さまに貼り付けられた「福」を見かけます。日本でも中国料理店などで見かけることがあります。
逆さまの「福」というのは、「福倒了(福が逆さまになっている)」と「福到了(福が来た)」の発音が同じであることから由来し、起源については3つの説があるそうで、http://www.ryx.cn/bbs/dispbbs.asp?boardid=35&id=35438
に詳しい説明が掲載されていました。
以下はその翻訳です。
1.恭王府説:
清の時代、恭王府(皇族などの邸宅)の召使いが、傭人頭(地主や官僚などの家の執事)から春節の前夜、邸宅の門と倉庫に福の字を書いた大きな紙を貼るように命じられた。
しかし、召使の一人が字が読めなかったために、この福の字を書いた紙を逆さまに貼ってしまった。
これを見た恭夫人は大いに怒って、その召使いを罰しようとした。ところが傭人頭は非常に聡明で機転が利く人間だったので、怒る夫人に対してとっさにこう返答した。
”今や人々は口々に、この門を見ては言っております。見ろ、恭王府の門に大きな福が来ている(福到了)と。”
これを聞いた恭夫人は大変気をよくして、罰するどころか傭人頭と召使いに褒美を与えたという。
2.慈禧太后説:
清の時代、光緒某年の旧暦12月24日(旧暦の12月24日は字を書く風習があったため)、慈禧太后は翰林(唐代以降に設けられた皇帝の文学侍従官)たちに、春联(おめでたい対句を赤い紙に書いて門戸に貼るもの)を作らせた。
翰林たちは数々の素晴らしい春联を書き上げたが、たまたま福という字が1つも入っていなかった。そのため、慈禧太后は機嫌が悪くなった。
慌てた翰林たちは皇后に命じられるままにたくさんの福という字を書き、その中から皇后が選んだ何枚かを宮内の各所に貼り付ける事にした。
この時、李蓮英という者(宦官リーダー)が、宦官たちに福という字を宮内各所に貼らせたのだが、貼り付け担当の宦官たちは字が読めなかったので、福の字を上下逆さまに貼ってしまった。しかも誰一人もこの間違いに気が付かなかった。
翌日、皇太后は間違いに気付き大いに怒ったが、頭の良い李蓮英が機転を利かせてこう答える。
”皇后さま、これはちゃんと意味があって逆さまに貼り付けているのです。ご覧下さい、“福到了(福が来た)”と読めるのではありませんか?”
説明を聞いた皇后は怒りを納め、大変に気を良くして、彼らに厚く褒美を与えた。
3.朱元璋・马皇后説:
かつて明太祖朱元璋(明の初代皇帝)という人が南京を攻撃・占領した際、腹心の部下に密かにこう命じた。
”今回の戦いで我々に味方した者たちには、明日までに皆各自の家の門に福の字を書いた紙を貼り付けておくように伝えろ!”
それは福の字のない家の者たちを、明日皆殺にしてしまうという意味だった。
それを伝え聞いた慈悲深い馬皇后は、この惨劇を回避すべく、密かに自分の手下の者たちに、「明日までに南京の全ての家の門に福の字を貼るようにと伝えるよう」と命じた。
翌日、朱元璋が御林軍(皇帝の直属部隊)に「福の字の無い家の人間を皆殺しにしろ」と命じたが、全ての家の門に福の字が貼られている、と部下に言われた。
これにはさすがの朱元璋も、怒るばかりで一体どうしてよいものか分からなくなった。
すると御林軍の頭目が、
”あの家の福の字をご覧下さい。上下が逆さまになっております。”
と気付いた。
当時は、字が読めない庶民が多かっため、福の字が上下逆さまに貼り付けられていたのだ。
腹が立って仕方がない朱元璋は、それを聞いて、
”では、まずあの家の者たちから皆殺しにせよ!”
と怒鳴った。これを聞いた馬皇后は、急いで朱元璋に向かってこう言った。
”もう一度よくご覧なさい。“福到了(福が来た)”と読めるのではありませんか。きっと今日、皇帝陛下がここに来る事を知って、歓迎する為にわざと逆さまにして、ようやくこの街に平和が戻って来た事を喜んでいるのです。”
朱元璋は馬皇后の言葉に感じ入り、皆殺しを止めたのである。
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